おてんばママのベーシックな店
|OTENBar
一度聞けば耳にも記憶にも残るこの独特な店名「OTENBar」だが、名付け親はママの同級生。「友達と店名を考えてて、4,5時間悩んでたんだけど、最後の方に『お前はおてんばやからオテンバでいいっちゃない?』と言われたのが由来です」と話してくれたのは、同店の鳥山智代ママ。そんな洒落の効いた店名とは裏腹に和装で決めたママの佇まいは「これぞスナック」といった風格だ。こちらもキリッと姿勢を伸ばし、ママのおてんばな経歴について、話を伺わせてもらった。
保育士からセールスレディまで
智代ママは宮崎市のご出身。学生時代には福岡に移り住み、短期大学で保育士の資格を取得。その後宮崎へ戻り保育士として就職するが、それから2年ほどで、ひょんなことから宮崎初のセールスレディとして活躍することに。
「父の紹介でTOYOTAの販売店に入ったのですが、所長さんが『車、売ってみるか?』と、軽いノリで勧めてくださったんです(笑)。バブルの頃は、女性は事務員さんか受付嬢の二択だったので、私が宮崎初のセールスレディだったみたいですよ。
当時は景気が良かったから、今みたいにいろいろ試乗してって感じではなくて、車を買う目的でくる車好きの人しかいなかった。だからそういう男のお客さんからしたら、女性の営業がどれくらい車のことを知ってるのか?と舐められたりもしたけど(笑)。色々勉強していたので質問にバッチリ答えていくと、なかなかやるな!気に入った!と言ってもらえるようになって。毎月ノルマも達成して、手当もかなりいただいていましたよ。人と話すのが好きなのでしょうね、楽しく働かせていただいていました」
このエピソードひとつを取っても、ママのコミュニケーション能力や営業力の高さが伝わってくる。その後結婚・出産のために退職し、しばらくは主婦をしていたのだそうだが、家の中だけで収まるママではなかった。第二子が3歳になった頃、やはり働きたい!と思い立ち、パートの仕事からまた、働き始めたのだそう。
父の言葉に背中を押されて
「はじめは家具屋さんで家具を売ったりしていたのだけど、趣味のダイビングの免許を取りに行った時、ダイビングショップの方にヘッドハンティングされて。そこでしばらく働いたあと、一緒に働いていた方と独立したんです。その後2002年くらいに、バイト感覚で夜の仕事をし始めたのがきっかけかな。そこからいくつか、夜のお店で働かせてもらっていました」
最後にチーママとして務めた店では「次動くときは店を出すとき」と決めていた智代ママ。そんなママに、人生の分岐点とも言える出来事が。
「最後の店を辞める1年半ほど前に、父が亡くなったんです。会社を経営していたのですが、社員の方が弔辞を述べてくれて…そこで『社長は間違いには怒らなかった。中途半端をした時に怒られた』というお話をしてくださった。それでなんだか、火がついたんです。『今の私、中途半端なんじゃない?』って。その時中央通りに店を作ろうと決心したので、働く心構えも変わっていきましたね」
亡きお父様の言葉で一念発起し、OTENBarをオープンしたのは15年前。当時は「いい時に店出したよね、これより悪くなることないから」と皆が口を揃えたのだそうだ。
「なんて思っていたら口蹄疫や鳥インフルエンザがあって、このコロナですよね…大先輩のママたちも経験したことがないだろうし、不安な状況ですが、『またニシタチバブルが来るはず』と、みんなで励ましあいながら頑張っています。飲みになんて、出なきゃ出ないでいいけど、出て来たらやっぱりこの楽しさを思い出すでしょう。だからまた、みんなで楽しく飲める日が来て欲しいなと思いますね。」
なくなられたら困る店
団体客を多く抱えていたOTENBarだが、これまでは“連れ”として訪れていた客が1人、「連れてこられる店がなくなったら困るから」と訪れたり、自身は出かけられないから、と息子にお金を渡してキープボトルを入れてくれたり…など、OTENBarが客にとっての大切な居場所になっていることがわかるエピソードをいくつも教えてくれた。
「いろんな仕事してきたけど、最終的にここに落ち着いてるってことは、やっぱり人と話すのが好きなんでしょうね。お客さんとスタッフに支えられて、ここまでやってこられたから、これからも変わらず、ここで頑張っていきたいですね」
と話してくれた。再びニシタチバブルが訪れることを、智代ママも、この場所を大切に思っている客たちも、今から心待ちにしている。
取材・執筆=倉本亜里沙、撮影=田村昌士
Data
鳥山智代
実はお酒は一滴も飲まない。趣味は旅行で、今一番行きたいのはオーストラリア。