ニシタチの風景を作った立役者のマスターが作る唯一無二の空間
|スナック 夕鶴
宮崎県民にはもちろん、県外や海外から訪れる飲兵衛たちを魅了してやまない繁華街、「ニシタチ」。近年では人口あたりのスナック数日本一として知られているこの街だが、その始まりは昭和30年代まで遡る。当時旧国鉄の寮跡地だった地域が払い下げられ、その場所に昭和31年、トリスバー「赤煉瓦」がオープン。同じタイミングで県庁前に散在していた屋台が中央通り沿いのビルへ入居し、集合飲食店街「安兵衛小路」ができた。それを皮切りに飲み屋が増えていき、現在では1000店舗以上の飲食店がひしめく宮崎最大の繁華街へと変貌を遂げた。
ニシタチとマスターの長い長い歴史
今日お会いするのは、そんなニシタチが変貌を遂げる過程を目の前で見守り続けた貴重な人物。社交飲食業生活衛生協同組合宮崎支部長で、「スナック 夕鶴」のオーナーでもある矢野和昭さんだ。矢野さんがマスターとして経営を始め40年以上の歴史ある同店。矢野さんの生い立ちとニシタチの生い立ち、切っても切れない両者の歴史について話を伺った。
「私はもともと北郷町の出身ですが、高校で神奈川県に、大学進学を目指して上京したりと、28歳で宮崎に戻るまでは色々な土地で生活をしてきました。東京では進学資金を貯めるため、道玄坂のキャバレーエンパイアでボーイのアルバイトをしていました。一年ほど働いた頃、新宿にできた松竹株式会社のパーラー・映画館・ボウリング場などが入っている施設の副支配人としてスカウトされ、そこで才能が花開いたんですね(笑)。憧れていた新宿歌舞伎町のアミューズメントスポット『風林会館』へ進出することになりました。そこで2年間、新宿でナンバーワンの売り上げを誇る店の最高責任者として勤務していました」
バブルの風に乗って故郷にラウンジの文化を
日本一華やかであると言って過言ではない夜の街、新宿歌舞伎町で一旗あげた矢野さんは、自分で事業を立ち上げようと決意。帰郷しわずか半年で時間制のスタイルアンドクラブ、今でいうラウンジをオープンさせた。当時まだ主流ではなかった“時間制”というシステムは、九州でも初の試みだったという。
「宮崎に帰ってきた頃には、自分が東京で見てきたようなシックなラウンジがなかったんですね。立ち飲みではなくて、カウンターの高さをぐっと落として、正面でお客さんと会話ができる、かっこよく品のある店を作りたかった。それでジャズシンガーとピアノをいれた『サウンドスナック トップギャラン』をオープンさせました。その後一階を『マルコポーロ』というラウンジに。大理石のテーブルで、とても高級感のある店でしたよ。続けて『エリントンクラブ』をオープンし、昭和53年、56年、59年と立て続けに新店舗を作りました。1980年バブルの時代、右肩上がりに風が吹いていましたね」
時には鹿児島から設計者と内装業者を招いて店舗の設計をしたのだという。時代の波を読むその先見の明と、流れを味方につける勝負強さでみるみるうちに経営を軌道に乗せ、ニシタチの風景を作る立役者の1人となったことは間違い無いだろう。興味深く話を聞いていると、オードリーという店について教えてくれた。
「まだこの辺が馬車道だったころの風景写真など、オードリーの人たちはいろいろ資料を持っていますよ。四方山話をしながら新聞記者の男の子と飲んだこともあるね。面白いから行って話を聞いてみるといいよ」
「ニシタチは永遠に不滅です」
その眼差しに、ニシタチへの深い愛情を垣間見ることができる。そんな矢野さん、当然このコロナ禍の現状にはさすがに心を砕いているようだ。
「スナックのマスターやママも高齢化が進んでいて、ここまでこられたらもう経済的にもも精神的にも、体力も持たん、とみんな嘆いています。そんな様子を見ているのが辛いですね。ニシタチ史上最大のピンチです。この時期稼げないのは経営者としてもかなりきつい、とにかくこの数ヶ月、今が関ヶ原の戦いですね。ここを耐えたらどうにかなるんじゃないかと思っています。業種・業態は変わっていくかもしれませんが、ニシタチは永遠に不滅、と信じるしかないですよね」
時期が時期だけに、ニシタチの未来を憂う会話から始まった今回の取材だが、終始快活な語り口で話を進める矢野さんに気落ちした様子は見えない。42年もの間、ニシタチを舞台に戦ってきたマスターにとっては、この戦も果たして、通過点に過ぎないのかもしれないと感じずにはいられない筆者であった。
取材・執筆=倉本亜里沙、撮影=田村昌士
Data
矢野和昭
小学生から生徒会に所属するなど「私腹を肥やすより人のために働く」がモットー。
現在も13の公職を掛け持ちしている。愛車は白のアウディ。